思念を美術に造形せず普通の言葉による「説明」でもって作品と称する方法。
個人が抱える
視点、意見、実験、発想、着想、妄想、
工夫、方法、計画、戦略、行為、作品などなどを、
ふつうのことばで、そのまま「説明」したもの
……
展示されているものは何か。それは、ただの説明です。何が説明されているか。特に脈絡はありません。日々の生活のうち思いついた、何かです。具体性はなく、オリジナリティもありません。
……
たかが説明文を、まんま展示する運動展だが、それでも多少の問題は伴う。費用と手間と、場所。
作品は簡単に作れても。例えばパネルは意外と高い。「運動展'07」で使用した、普通のキャプションに使うような糊付きパネルは、300円くらいする。そうなると、30作品でも1万円くらいかかるわけで、普通、美術の展示に経費が1万円って格安だけれども、ちょっとヤダ。自ずと作品を絞らねばならなくなる。
やや奇を衒ったように見える「運動展'007」だが、シャツが100円に、アイロンプリント用紙が100円と、パネルより安い。
でも、アイロンプリントは大変。アイロンプリントって、何を隠そう、アイロンを使うんです。熱い重い電気がいる場所がいる。スタンダードなパネルもパネルで大変。キンコーズで大判出力(貼りミスを考えて2枚ずつ)、裏紙剥がして(ゴミだらけ)、位置を合わせて、サイズが丁度ではないので余った分を裁断して(ゴミだらけ)……26枚だけでも夜を徹しての作業。
別に紙を直接テープでくっつけるだけでもいい。いや、本来はそうあるべきで、そうしようと何度も思った。でも、やっぱり貧相過ぎるか……と思いとどまることになる。
しかし、一番の問題は「場所」かもしれない。パネルでも紙片でも、それを如何に配置するべきか、というのは難しい。「運動展'007」では、目線上に直線、と一番簡単な方針にした。でも、手間と関連して、それすら僕には面倒だ。
「運動展'007」のラックにまとめて吊るしたTシャツで初めて「見開き」展示をやめて、来場者が任意に「開き見」しなければ読めない、「格納タイプ」の方式を採った。来場者に手間をかけるのは申し訳ないけれど、まあ立たせて歩かせるのも手間と言えば手間だし、作品を読むこと自体、いやそれ以前に来場する時点で、手間過ぎるのでそれくらいは勘弁してもらいましょう。
でも、見開いていない「運動展'007」では、ラックに吊るしたTシャツ群を眺めて、文章を読まずそのまま帰った人が、それなりにいた。わざわざ展示を見に来て、特に疑問を抱かずにそのまま帰れてしまうのは如何なものか。「このTシャツ吊るしたののどこが面白いねん!」と怒ったりするならともかく。
そんな人たちのために、見開いた空間を用意するのは馬鹿げている。いちいち見せてやらなくちゃ、見ることもできないのか。美術鑑賞が、ごろ寝テレビ(笑い声の効果音と、過剰なテロップ付き)と変わらない。そう考えていくと、「開き見」が面倒ではない限りは、あらゆる利便性を考え、格納するタイプの展示で良い、と考えた。
ただし、この調子で行くと……。言葉の究極且つ普遍的な格納方式である「本」でいいやないかと。情報の究極且つ普遍的な格納方式である「ウェブ」でいいやないかと。展示、更には美術、の文脈から離れていってしまう。
僕は敢えて、運動展を、そこまで格納してしまうのではなく、物(としての価値はないけれど)の展示、としてきた。何故、本やウェブでは駄目なのか。それは、ただの雰囲気作り、のためでしかないのか。本屋には、数多の面白い本が並んでいる。ウェブに至っては「面白い話」と検索すれば本当に面白い話が出てくるような世界だ。そうした中で、作品を提示するのは、あまりに疲れる話だが、だからといって、そこを避けるのは、ただの逃げでしかないのか。
たかが雰囲気、されど雰囲気。雰囲気は、当然重要です。ただ、それを、ある種の制限でもって醸しだそうとする態度は、果たしてどうなのかな、と。これに対する答は、まだ持っていない。いや、あるけど、まだ言語化できない。運動展云々の話ではなく、メディアとは何かとかになってくる。それも総論でなく各論。考えるだけで眠くなってしまうぜ。
ただ、展示していた作品を郵送するだけでなく、以下のようなプラスアルファがある。
これまで展示空間として使用されてきた場所を「視聴嗅味触覚室」と称して、展示空間と切り離し、公開レクチャー他、各種の関連/独立の催事を行う場とする。
ちんたらちんたら