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業務日報

7月6日(月)

銭湯といえば、人情溢れる場所って感じだけれど。実際はそうでもない。今日銭湯行ったら、いきなり番台のおばあさんがキレてて、浴場内で倒れてるやつについて罵ってた。「もー!やらしいわ!倒れとるで、貧血かい!」と、まるで倒れてる男が、何かを狙ってやってるようなニュアンスだ。前も、このおばあさん、倒れてる人を罵っていた。確かに厄介だろうけれど。浴場内で倒れるなんて、僕だって他の常連客だって、可能性はあるだろうで、あまりそう罵らない方がいい。

とはいえ、その番台に限らず、僕や他の客も、ずっと倒れ伏している男を無視していた。まあ番台は、何度か声かけたみたいだが、寝てるだけの質の悪い客と判断したのだろう。少し声をかけては罵って呆れて去っていった。

小田寛一郎さんが、普通芸術について言及してくだすってます。何時もありがとうございます。

鶴見の「限界芸術論」は、何年か前に会社で買って、最初の十数ページ読んだきりだ。

普通芸術自体の定義もままならないので、限界芸術と如何なる関係を持つかは難しい。共有するそうでしない、普通芸術の要素が二つあって、それは

  1. 芸術が生活手段でないこと(生活手段を別に得て、純粋な芸術を行うこと)
  2. 特殊な力に頼らないこと(普通でも、可能なこと)

……。この二つ、密接につながっているが、実際には独立してる、かな。まあ、この点が、普通芸術と限界芸術が、近いかな、遠いかな、って感じたり感じなかったりする分かれ目か。

あと、享受者の関係か。僕はどうか。気持ちはあらゆる人々対象だけど、でも現実として、専門家を相手にしているのは確か。演劇を観るのに慣れてる人、美術を見るのに慣れてる人、それらの諸作品が形成してきたコードを解読できる人、この人々の方が、僕の作品をより深く楽しめるのは確かだし、且つ、僕もそれを期待して、エンコードしてる。それは確か。

が、それでも僕は、僕が普通であることでもって、その作品を、非専門家に届けうる可能性を保持してる、としておきたい。逆に、特殊芸術家……専門芸術家の作品が、如何に優れた普遍性をもって大衆をも巻き込んでも、決して真に届くとはいえない……ま、観念的な問題ですが。つまり、例えばアサダさんらが、新世界で街頭テレビを仕掛けても、きっと受けいれられるのでしょーけど、それってどうなの?って話(これ見てないので何も言えたものではありませんが)。普通芸術を説明する折にしばしば話す「普通によって、作品を裏付ける」これがそこ。

あと、享受者層についてですが、専門家と大衆は単純な対称概念ではない。誤解を恐れずに言えば、専門家の方が偉い。えーって言われそうだが、そりゃ偉い。大衆が、ふと何か考えるとき、それはそりゃ、専門家が既に通った道を辿る。普通芸術の目指すところは、大衆の云々に足をつけたまま、何処まで専門のとこまで伸びができるか。

「普通芸術」のよくある誤解に、「普通であることのかけがえのなさを大切にする」みたいなのがあって、つい先日も「日常の何気ない一言の集積に、アートの可能性が云々」と、僕に寄って発言してくれた方がいらっしゃったが、それもあるけど、そうじゃない。敢えて言えば、日常の何気ない一言は、何気ない一言でしかない。考え抜かれた一言を、大衆が放てばいい、ってこと。大衆の一人ひとりが、独自の作家性を持てばいい、ってこと。

混迷してきた。なーんか、いつも、考えがまとまらねえんだよな、普通芸術に関しては。わかんねえまま、文中で誰かをけなした気がするが。

山本握微 - Yamamoto Akubi - Email : akubi(at)kiwamari.org